ラテン語のrectusに「右」という意味はないという話: 絶対配置のRS表示法

調べものをしたのでメモ。有機化学で絶対配置を示すRS表示法のRはラテン語のrectusに由来するのですが、rectusに「右」という意味はありません。やや細かい話ですが、有機化学の語源説明にはしばしば誤解が見られるため、整理しました。

科学で「右」と「左」を表わすのは基本的にDとL

用語解説

(+)/(−)- とd/l

直線偏光がキラルな物質を通過すると偏光面が回転する「旋光」現象は1811年にフランスのFrancois Aragoによって発見されました (Arago, 1811)。観測者から光源を見た時に、

・偏光面を右(時計回り)に回転させると「右旋性」です。フランス語では “dextrogyre”、英語では “dextrorotatory“。かつては化合物の前に(小文字でイタリック体の)”d-” を付けて表わされましたが、現在は “(+)- ” で表わされます(例: (+)-carvone)。

・偏光面を左(反時計回り)に回転させると「左旋性」です。フランス語では “lévogyre”、英語では “laevorotatory” または “levorotatory“。かつては化合物の前に(小文字でイタリック体の)”l-” を付けて表わされましたが、現在は “(−)-” で表わされます(例: (−)-carvone)。

D/L-

旋光性とは別に糖やアミノ酸のエナンチオマーを区別して呼ぶ方法にFischer–Rosanoff convention、いわゆるD/L表記法があります。これは D-(+)-glycelaldehydeと L-(−)-glycelaldehydeを基準にした表記法です。Fischerはグリセルアルデヒドの両エナンチオマーに絶対配置を任意に与えて、フィッシャー投影式で表わした時に、2位OH基が右側(Dexter)に来るものをD体、2位OH基が左側(Laevus)に来るものをL体と命名しました(後にglycelaldehydeの両光学異性体の絶対配置が明らかになった時に、(+)-体 = D配置が正しかったのは幸運なことでした)。D-、L- は小さな大文字(small capital)で書かれることが多いです。

Dextro- とlaevo- は他にも使われていて、D-(+)-glucose(ブドウ糖)はかつては “dextrose“(右旋糖)と呼ばれていて、D-(−)-fructose(果糖)はかつては “laevulose” または “levulose“(左旋糖)と呼ばれていました(Bryant, 1934)。名称の “Levulose” は旋光方向(左旋)に基づいていますが、D/L表記ではD体に属するため混乱を招きました。現在は旋光性と関係のない “fructose” が使用されています。

他にも化合物名のdextroamphetamine((+)-Amphetamine)とlevoamphetamine((−)-amphetamine)、医学用語のdextrocardia(右胸心)とlevocardia(左胸心)が例として挙げられます。

R/S

立体異性体の絶対配置を表わすために使われるのがCahn–Ingold–Prelog順位則で、この規則にしたがってR/SとE/Zが決められます。立体中心の周りに4つの置換基がある場合を考えて、最も順位が低い置換基を奥に配置します。この時、手前側を向いた残りの置換基を順位にしたがって辿った時に、右回り(時計回り)になる絶対配置をR、左回り(反時計回り)になる絶対配置をSと言います。

全ての不斉中心についてRとSが決まるので、D-(+)-glucoseは (2R,3S,4R,5R)-2,3,4,5,6-pentahydroxyhexanal、L-(−)-glucoseは (2S,3R,4S,5S)-2,3,4,5,6-pentahydroxyhexanalと表わすことができます。

語源

ここからが本題です。D/L(八面体配位化合物のΔ〔デルタ〕/Λ〔ラムダ〕も)の元になった “dextro-” はラテン語で「右の; 右側の」を意味する形容詞 “dexter” に、”Laevo-“(または “levo-“)はラテン語で「左の; 左側の」を意味する形容詞 “laevus” に由来します。D/Lが古代ギリシア語の形容詞δεξιός(dexiós)とλαιός(laiós)に由来すると書かれていることがありますが間違いで、dexterとdexiós、laevusとlaiósは同根語であって、dexterがdexiósに由来するわけではありません。この誤解はRosanoffがFischerのd/l-系列と区別するために自身の系列に対してギリシャ文字δ/λ- を使用したことに起因しているのかもしれません。以下はRosanoffが1906年にJACSに発表した論文の一節です。Fischerの表記法をギリシャ文字に置き換える理由を説明しています。

Thus, ordinary glucose and its corresponding fructose (levulose) are designated, respectively, d-glucoase and d-fructose, not withstanding the levo-rotation of the latter.

The substances so correlated include, as yet, only the monosaccharides and their derivatives. In other cases the symbols d and l denote dextro- and levo-rotation. The reform proposed in the following pages, and the importance of avoiding possible confusion, will justify my employing in this paper the Greek δ and λ as family-symbols in place of the customary but misleading d and l.

Rosanoff, M. A. On Fischer’s classification of stereo-isomers. J. Am. Chem. Soc. 1906, 28, 114.

Dexter(ラテン語の形容詞): 意味 1) 右の右側の対義語laevus, scaevus, sinister)、2) 器用な、巧みな、3) 幸運な、縁起のよい、4) 適切な、ふさわしい

Laevus(ラテン語の形容詞): 意味 1) 左の左側の類義語: scaevus, sinister; 対義語: dexter)、2) (比喩的に)不器用な、ぎこちない、3)(比喩的に)愚かな、4) 不運な、縁起の悪い

では、R/Sの語源はというとラテン語の “rectus” と “sinister” に由来すると説明されています。

The suggested indications for asymmetry leading, under the sequence and conversion rules, to a right- and left-handed pattern, are capital italic R and S, respectively, where R derives from the Latin rectus, meaning “right”, and S from sinister. This last word means “left” not only in Latin: it appears with that significance in several modern languages: and, although in English its common meaning is the symbolic derivative, “of evil omen”, in a few special uses it retains its original meaning of “left”.

Cahn, R. S.; Ingold, C. K.; Prolog, V. The specification of asymmetric configuration in organic chemistry. Experientia 1956, 12, 81.

Rectus(ラテン語の動詞regōの完了受動分詞): 意味 1) まっすぐに導かれた、一直線に引かれた、直立した(類義語: prōrsus)、2) (一般的に)正しい、適切な、ふさわしい、3) (特に)道徳的に正しい、正当な、合法的な、公正な、徳のある、立派な、善良な、正直な(対義語: prāvus, iniūrius

Sinister(ラテン語の形容詞): 意味 1) 左の、左側の類義語: laevus, scaevus; 対義語: dexter)、2)(比喩的に)ひねくれた、悪い;反対する、敵対的な

Rectusに「右」という意味はありません。なぜ有機化学の教科書に「rectusはラテン語の “右”」と書かれているかですが、これは、ラテン語の “rectus” に対応する英語の “right” が、「まっすぐ」や「正しい」に加えて「右(方向)」も意味する多義語であるためです(フランス語のdroitも同様に「右」「まっすぐ」「正直」「権利」などを意味します。一方anti配座/gauche配座のgaucheは「左(の)」、「ぎこちない」、「鈍い」という意味です。)。

ブルース有機化学(第7版)の原書からR配置の語源について書かれている部分を引用します。

If the arrow points clockwise, the compound has the R configuration (R is for rectus, which is Latin for “right”).

—ブルース有機化学(第7版)(原書)

“Right” には複数の意味があるのでこれは間違いではありません。この部分の日本語訳(第7版上巻)を引用します。

矢印が時計回りの方向を向いているならば,その化合物はR配置である(Rはラテン語で “右” を意味するrectusに由来している).— ブルース有機化学(第7版)(日本語版上)

“Rectus” に「右(方向)」という意味はないため、これは厳密には誤りといえます。

教科書でどう書かれているかの表

教科書記述
Rectus” の正しい意味を書いている教科書
ラウドン有機化学 (上)(2018年)Rはラテン語のrectus(正しい)に由来する
ハート基礎有機化学 三訂版(2002年)(ラテン語のrectus ; 右の意味*)* もっと正確にいうならrectusとは「正しい,または適正」の意味のrightであって,「右」の方向を意味するものではない(右の意味ならdexterであろう)。
気を付けている教科書
パイン有機化学 第5版(上)(1989年)rectus,英語の “straightまたはright”,転じて “右”
「右」以外の意味を併記している教科書
有機化学I 有機化学の基礎(森謙治)(1988年)その時,R1→R2→R3と回る方向が時計回りであればR〔ラテン語のrectus(= 右,まっすぐな,正しい)より由来〕,
意味を書いていない教科書
大学院講義有機化学 第2版(I)(2019年)これが時計回りならR (rectus) 配置,
ウォーレン有機化学 第2版(上)(2015年)これが時計回りならば,キラル中心の絶対配置をRとする.
ケンプ有機化学 (上)(1983年)もしa, b, cの順序が時計回りとなっていれば,このキラリティー中心をR(ラテン語: rectus)と表記する;
「右」とだけ書いている教科書
クライン有機化学 (上)(2017年)この化合物のエナンチオマーは時計回りの配列をもち,R(ラテン語で右を意味するrectusから)と表示する.
ジョーンズ有機化学 第5版(上)(2016年)Rはラテン語のrectus(右)に由来する
マクマリー有機化学 第9版(上)(2017年)R配置(R configuration,ラテン語のrectus “右”)
ボルハルト・ショアー現代有機化学 第8版(上)(2019年)反対にもし時計回りの順ならば,立体中心はRrectus,ラテン語の「右」)と表記される.
モリソン・ボイド有機化学 第6版(上)(1994年)もし時計まわりであれば,この立体配置はR(ラテン : rectus 右)と表記し,
スミス有機化学 第5版(上)(2017年)Rは「右」を意味するラテン語のrectusに由来し,Sは「左」を意味するラテン語のsinisterに由来する.
ブルース有機化学 第7版(上)(2014年)矢印が時計回りの方向を向いているならば,その化合物はR配置である(Rはラテン語で “右” を意味するrectusに由来している).
マリンス有機化学 (上)(2024年)この経路が時計回りであれば,その模型はR(ラテン語で “右” を意味するrectusに由来)と名づけられる.
ソレル有機化学 (上)(2009年)これが時計回り(右回り)なら,キラル中心はR配置であり(ラテン語で右を意味するrectusに由来する),
基礎有機化学(フェッセンデン)(1993年)この矢印が時計まわりの場合,立体配置は (R)(ラテン語rectus,”右” の意味)である.

右と左を表わすD/Lが先に使われていたのでCIP順位則に基づく絶対配置表示法ではR/Sが使われているのですが、なぜRにしたのでしょうか。1956年の論文にははっきりと “R derives from the Latin rectus, meaning “right”” 書かれていますので、”rectus” が方向としての “right” を意味すると誤解していた可能性も考えられます。ただし、当時の研究者はラテン語教育を受けていたことが多く、単なる誤解とは断定できません。ハート基礎有機化学では以下のように書かれていました。

もっと正確にいうならrectusとは「正しい,または適正」の意味のrightであって,「右」の方向を意味するものではない(右の意味ならdexterであろう)。ひょっとしたら,この表示法の提案者の一人のイニシャルが R. S. であることと関係があるのかもしれない。

— ハート基礎有機化学 三訂版

(了)

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