ラテン語のrectusに「右」という意味はないという話: 絶対配置のRS表示法

調べものをしたのでメモ。有機化学で絶対配置を示すRS表示法のRはラテン語のrectusに由来するのですが、rectusに「右」という意味はありません。やや細かい話ですが、日本語の有機化学の教科書での語源説明にはしばしば誤解が見られるため、整理しました。

概要

  • RS表示法のRの由来のラテン語rectus は「右」ではなく「直線に沿った・正しい」を意味する語
  • しかし対応する英語の “right” (フランス語の “droit” も)が「右」の意味を同時に持つため、翻訳時に混乱が生じた
  • Cahn–Ingold–Prelog 則の考案者がどの意味で “rectus” を選んだかは文献からは断定できない
  • 日本語の有機化学教科書の多くは “rectus” が「右」とだけ説明している

科学で「右」と「左」を表わすのは基本的にDとL

用語解説

(+)/(−)- とd/l

1811年にフランスのFrançois Aragoは結晶の光軸に垂直に切断した水晶の切片が旋光性を示すことを発見しました (Arago, 1811)。1819年、Jean-Baptiste Biotは旋光性には右旋性と左旋性があること、酒石酸の水溶液が旋光性を示すことを発見しました。観測者から光源を見た時に、

・偏光面を右(時計回り)に回転させると「右旋性」です。フランス語では “dextrogyre”、英語では “dextrorotatory“。かつては化合物の前に(小文字でイタリック体の)”d-” を付けて表わされましたが、現在は “(+)- ” で表わされます(例: (+)-carvone)。

・偏光面を左(反時計回り)に回転させると「左旋性」です。フランス語では “lévogyre”、英語では “laevorotatory” または “levorotatory“。かつては化合物の前に(小文字でイタリック体の)”l-” を付けて表わされましたが、現在は “(−)-” で表わされます(例: (−)-carvone)。

D/L-

旋光性とは別に糖やアミノ酸のエナンチオマーを区別して呼ぶ方法にFischer–Rosanoff convention、いわゆるD/L表記法があります。これは D-(+)-glycelaldehydeと L-(−)-glycelaldehydeを基準にした表記法です。Fischerはグリセルアルデヒドの両エナンチオマーに絶対配置を任意に与えて、フィッシャー投影式で表わした時に、2位OH基が右側(Dexter)に来るものをD体、2位OH基が左側(Laevus)に来るものをL体と命名しました(後にglycelaldehydeの両光学異性体の絶対配置が明らかになった時に、(+)-体 = D配置が正しかったのは幸運なことでした)。D-、L- は小さな大文字(small capital)で書かれることが多いです。

Dextro- とlaevo- は他にも使われていて、D-(+)-glucose(ブドウ糖)はかつては “dextrose“(右旋糖)と呼ばれていて、D-(−)-fructose(果糖)はかつては “laevulose” または “levulose“(左旋糖)と呼ばれていました(Bryant, 1934)。名称の “Levulose” は旋光方向(左旋)に基づいていますが、D/L表記ではD体に属するため混乱を招きました。現在は旋光性と関係のない “fructose”(果糖、fructus〔ラテン語で果物〕+ -ose)が使用されています。

他にも化合物名のdextroamphetamine((+)-Amphetamine)とlevoamphetamine((−)-amphetamine)、医学用語のdextrocardia(右胸心)とlevocardia(左胸心)が例として挙げられます。

R/S

化合物中の絶対配置を決定するために使われるのがCahn–Ingold–Prelog順位則で、不斉点/軸/面のR/S配置と二重結合のE/Z配置が決められます。立体中心の周りに4つの置換基がある場合(点不斉)を考えて、最も順位が低い置換基を奥に配置します。この時、手前側を向いた残りの置換基を順位にしたがって辿った時に、右回り(時計回り)になる絶対配置をR、左回り(反時計回り)になる絶対配置をSと言います。

全ての不斉中心についてRとSが決まるので、D-(+)-glucoseは (2R,3S,4R,5R)-2,3,4,5,6-pentahydroxyhexanal、L-(−)-glucoseは (2S,3R,4S,5S)-2,3,4,5,6-pentahydroxyhexanalと表わすことができます。R/Sが化合物名に組込まれた例としてはarketamine((R)-(−)-ketamine)とesketamine((S)-(+)-ketamine)があります。

語源

ここからが本題です。D/L(八面体配位化合物のΔ〔デルタ〕/Λ〔ラムダ〕も)の元になった “dextro-” はラテン語で「右の; 右側の」を意味する形容詞 “dexter” に、”laevo-“(または “levo-“)はラテン語で「左の; 左側の」を意味する形容詞 “laevus” に由来します。Rosanoffは当初Fischerのd/l-系列と区別するために自身の系列に対してギリシア文字δ/λ– を使用していました。以下はRosanoffが1906年にJACSに発表した論文の一節です。Fischerの表記法をギリシア文字に置き換える理由を説明しています。

Thus, ordinary glucose and its corresponding fructose (levulose) are designated, respectively, d-glucose and d-fructose, not withstanding the levo-rotation of the latter.

The substances so correlated include, as yet, only the monosaccharides and their derivatives. In other cases the symbols d and l denote dextro- and levo-rotation. The reform proposed in the following pages, and the importance of avoiding possible confusion, will justify my employing in this paper the Greek δ and λ as family-symbols in place of the customary but misleading d and l.

Rosanoff, M. A. On Fischer’s classification of stereo-isomers. J. Am. Chem. Soc. 1906, 28, 114.

Dexter(ラテン語の形容詞): 意味 1) 右の右側の対義語laevus, scaevus, sinister)、2) 器用な、巧みな、3) 幸運な、縁起のよい、4) 適切な、ふさわしい

Laevus(ラテン語の形容詞): 意味 1) 左の左側の類義語: scaevus, sinister; 対義語: dexter)、2) (比喩的に)不器用な、ぎこちない、3)(比喩的に)愚かな、4) 不運な、縁起の悪い

では、R/Sの語源はというとラテン語の “rectus” と “sinister” に由来すると説明されています。

The suggested indications for asymmetry leading, under the sequence and conversion rules, to a right- and left-handed pattern, are capital italic R and S, respectively, where R derives from the Latin rectus, meaning “right”, and S from sinister. This last word means “left” not only in Latin: it appears with that significance in several modern languages: and, although in English its common meaning is the symbolic derivative, “of evil omen”, in a few special uses it retains its original meaning of “left”.

Cahn, R. S.; Ingold, C. K.; Prolog, V. The specification of asymmetric configuration in organic chemistry. Experientia 1956, 12, 81.

Rectus(ラテン語の動詞regōの完了受動分詞): 意味 1) まっすぐに導かれた、一直線に引かれた、直立した(類義語: prōrsus)、2) (一般的に)正しい、適切な、ふさわしい、3) (特に)道徳的に正しい、正当な、合法的な、公正な、徳のある、立派な、善良な、正直な(対義語: prāvus, iniūrius

Sinister(ラテン語の形容詞): 意味 1) 左の、左側の類義語: laevus, scaevus; 対義語: dexter)、2)(比喩的に)ひねくれた、悪い;反対する、敵対的な

Rectusに「右」という意味はありません。なぜ日本語の有機化学の教科書に「rectusはラテン語の “右”」と書かれているかですが、これは、ラテン語の “rectus” に対応する英語の “right” が、「まっすぐ」や「正しい」に加えて「右(方向)」も意味する多義語であるためです(フランス語のdroitも同様に「右」「まっすぐ」「正直」「権利」などを意味します。一方anti配座/gauche配座のgaucheは「左(の)」、「ぎこちない」、「鈍い」という意味です)。語根 “rect-” やその元の “reg-” を持つ単語の例を挙げます: 英: rectus(直筋)、英・仏: rectangle(矩形、長方形)、英: rectify・仏: rectifier(正す)、英・仏: direct(直接、まっすぐ)、英・仏: correct(正しい)、英: regal(王の)、英・仏: royal(王の・王室の)、英: regular(規則的な)。

ブルース有機化学 (Bruice Organic Chemistry)(第7版)の原書と日本語訳からR配置の語源について書かれている部分を引用します。

【原書】If the arrow points clockwise, the compound has the R configuration (R is for rectus, which is Latin for “right”).

【日本語版】矢印が時計回りの方向を向いているならば,その化合物はR配置である(Rはラテン語で “右” を意味するrectusに由来している).

続いて、ハート基礎有機化学 (Hart’s Organic Chemistry : A Short Course) では、

【原書】R (from the Latin rectus, right).

【日本語版】R(ラテン語のrectus ; 右の意味)

マクマリー有機化学 (John McMurry’s Organic Chemistry) でも

【原書】the R configuration (R for the Latin rectus, meaning “right”)

【日本語版】R配置(R configuration,ラテン語のrectus “右”)

図書館で有機化学の教科書をざっと見ましたが、17冊中10冊で “rectus” の意味は「右」とだけ書かれていました。

ここまで出てきたラテン語の意味を表にまとめます。

ラテン語品詞意味付随する意味現代英語との関係a
dexter形容詞右の、右側の器用・幸運dexterous(器用な)
laevus形容詞左の、左側の不器用・不運levorotatory(左旋性)
sinister形容詞左の、左側の不吉・邪悪sinister(不吉な)
rectus受動完了分詞まっすぐな、正しい(方向としての「右」は意味しない)rectangle(長方形)
a 堀田隆一 (2010).

右と左を表わすD/Lが先に使われていたのでCIP順位則に基づく絶対配置表示法ではR/Sが使われているのですが、なぜRにしたのでしょうか。1956年の論文にははっきりと “R derives from the Latin rectus, meaning “right”” 書かれています。英語の母語話者にとって “right” の基本的な意味は「正しい」、「適切な」だそうです(例: You’re right.; Do the right thing.; That’s the right answer.)。ある人はこのラテン語 (rectus in the sense of straight) から英語 (right in the sense of directional right) への「言語学的な飛躍」は意図的なものだと推測しています (Todd, 1987)。Yale大学のウェブサイトにもrectusは “correct” の意味で、sinisterは “improper” 意味だと書かれていました。

R stands for righthanded (L., rectus: right, in the sense of being correct) and S for lefthanded (L., sinister: improper).

[One might question why the Latin for “on the right”, dexter, and “on the left”, laevus (levus) were not adopted. Unfortunately, “d” and “l” were already in use for the direction of rotation of plane polarized light by optical active compounds (enantiomers). […]. One wag has suggested that Cahn wished his initials to be the descriptors.]

最後のジョークは、ハート基礎有機化学でも以下のように触れられていました。

More precisely, rectus means “right” in the sense of “correct, or proper”, and not in the sense of direction (which is dexter = right, opposite to left). It may not be entirely coincidental that the initials of one of the inventors of this system are R. S.

もっと正確にいうならrectusとは「正しい,または適正」の意味のrightであって,「右」の方向を意味するものではない(右の意味ならdexterであろう)。ひょっとしたら,この表示法の提案者の一人のイニシャルが R. S. であることと関係があるのかもしれない。

このCahnのイニシャル由来説について古賀 元 先生(茨城大学)がJournal of Chemical Educationに質問を投げ掛けているletter (Koga, 1989)を見付けましたが、返答は無かったようです。

教科書でどう書かれているかの表

教科書記述
本文では「右」と書いているが、脚注は正しく訳している教科書
ハート基礎有機化学 三訂版(2002年)(ラテン語のrectus ; 右の意味*)* もっと正確にいうならrectusとは「正しい,または適正」の意味のrightであって,「右」の方向を意味するものではない(右の意味ならdexterであろう)。
Rectus” は “straight” の意味だと書いている教科書
パイン有機化学 第5版(上)(1989年)rectus,英語の “straightまたはright”,転じて “右”
「右」と書いていない教科書
ラウドン有機化学 (上)(2018年)Rはラテン語のrectus(正しい)に由来する
「右」以外の意味を併記している教科書
有機化学I 有機化学の基礎(森謙治)(1988年)その時,R1→R2→R3と回る方向が時計回りであればR〔ラテン語のrectus(= 右,まっすぐな,正しい)より由来〕,
意味を書いていない教科書
大学院講義有機化学 第2版(I)(2019年)これが時計回りならR (rectus) 配置,
ウォーレン有機化学 第2版(上)(2015年)これが時計回りならば,キラル中心の絶対配置をRとする.
ケンプ有機化学 (上)(1983年)もしa, b, cの順序が時計回りとなっていれば,このキラリティー中心をR(ラテン語: rectus)と表記する;
「右」とだけ書いている教科書
クライン有機化学 (上)(2017年)この化合物のエナンチオマーは時計回りの配列をもち,R(ラテン語で右を意味するrectusから)と表示する.
ジョーンズ有機化学 第5版(上)(2016年)Rはラテン語のrectus(右)に由来する
マクマリー有機化学 第9版(上)(2017年)R配置(R configuration,ラテン語のrectus “右”)
ボルハルト・ショアー現代有機化学 第8版(上)(2019年)反対にもし時計回りの順ならば,立体中心はRrectus,ラテン語の「右」)と表記される.
モリソン・ボイド有機化学 第6版(上)(1994年)もし時計まわりであれば,この立体配置はR(ラテン : rectus 右)と表記し,
スミス有機化学 第5版(上)(2017年)Rは「右」を意味するラテン語のrectusに由来し,Sは「左」を意味するラテン語のsinisterに由来する.
ブルース有機化学 第7版(上)(2014年)矢印が時計回りの方向を向いているならば,その化合物はR配置である(Rはラテン語で “右” を意味するrectusに由来している).
マリンス有機化学 (上)(2024年)この経路が時計回りであれば,その模型はR(ラテン語で “右” を意味するrectusに由来)と名づけられる.
ソレル有機化学 (上)(2009年)これが時計回り(右回り)なら,キラル中心はR配置であり(ラテン語で右を意味するrectusに由来する),
基礎有機化学(フェッセンデン)(1993年)この矢印が時計まわりの場合,立体配置は (R)(ラテン語rectus,”右” の意味)である.

(了)

おまけ、その1: 中世になるとrectusを右の意味で使うことがあった

Rectus ≒ droitゆえにrectus ⊃ 右という自然な誤用?は昔からあったようです。19世紀に出版された中世ラテン語の辞書Glossarium mediae et infimae latinitatisに用例があります。

  • 「右手」の意味でのmanus recta(古典ラテン語ではdextera)。
  • 「〜の右側に」の意味でのad rectum

おまけ、その2: Glucoseの語源はγλεῦκος(gleûkos、ブドウ果醪)

Glucoseの語源は古代ギリシア語のγλῠκῠ́ς(glŭkŭ́s、甘い)と解説されていることが多いのですが、元の論文に書いてある語源は関連語のγλεῦκος(gleûkos、ブドウ果醪・発酵が進んでいない甘い葡萄酒)です (mozhi gengo, 2025)。

Il résulte des comparaisons faites par M. Péligot, que le sucre de raisin, celui d’amidon, celui de diabètes et celui de miel ont parfaitement la même composition et les mêmes propriétés, et constituent un seul corps que nous proposons d’appeler Glucose*.

* γλευϰος, moût, vin doux

— Louis Jacques Thénard, Louis Joseph Gay-Lussac, Jean-Baptiste Biot et Jean-Baptiste Dumas, « Rapport sur un mémoire de M. Péligiot, intitulé : Recherches sur la nature et les propriétés chimiques des sucres », Comptes rendus hebdomadaires des séances de l’Académie des sciences,‎ 2 juillet 1838, p. 106-113.

参考文献

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